皆様の一年も祝福の多い一年だったと推察いたします
旧年の垢を落とし新たなる年を迎えるにあたって祈りましょう・・・という事なのですがここで「祈り」とは何かについて考えてみたいと思います。
人は祈る時に自らの願望が達成できることを心に描きながら神様(?)にお願いするという形になり神社に行ったり仏壇の前で仏さまに手を合わしたりしています。一方においてクリスチャンは教会にて十字架イエスキリストに祈ったりしている。
問題は果たしてそれで願望が叶うのであろうかということ。基本的には宗教儀式といっても差し支えないのであろうが、本当に祈りの効果を実感した人がはたしているのだろうかと、思うのです。昔から「イワシの頭も信心・・・」などという言葉がうったということは信ずるという力の存在、つまり思考エネルギーという存在があるという事を裏付けているのかもしれません。エネルギーというからには波長がありバイブレーションの形をもって発信されていてその願望のエネルギーと同期している物質を引き寄せるといった現象が起きるために願望が叶うのであろうか・・・
神社にて家内安全、願望成就、安産祈願、受験成就など多くの札がかざってあるものの、単なる自己満足というかおざなりに祈っているのが神社。
先祖供養、西方浄土、など拝むのが仏教という形であり、キリスト教は死後の復活といった祈り。何れも願望達成といった祈りになっているものと考えられる。
無神論者がでは祈っていないかというとそんなことはなく、金儲けができますようにとか、恋愛が成就しますようにとか祈っている。前者と後者のどこに違いがあるのか・・・根本的には違いはないが、祈る対象物があるかないかという点に違いがあるだけであろう。又祈る時の言葉・・仏教ではその宗派ごとにとりきめられているという、南無阿弥陀仏 南無妙法蓮華経 般若心経
法華経などのお経などよく考えたらインドの時代のお釈迦様の説法を後の人が後世に伝えようとした結果としてそれぞれが部分的に聴いたことを文にしたものと考えて差し支えないと思う。所謂「如是我聞」・・・※私はお釈迦様からこのように聞きましたという意味である
祈りの根本というのはこのように宗教的対象物の有無によって異なるようであるし無神論者はその対象物が金や地位や名誉であるだけで究極的に言えばそのことが対象物ともいえる。
祈りについての結論めいた事として人はわからない未来に対しての希望は持っていてまだ見ぬ未来を栄えあるものとして願うことは人として当然な心理的行為であるという事、そしてその祈りがかなえられるか否かもその本質において現実的な努力が必要であることを人々は知っているのだという事。一神教ではない日本人の特徴なのかもしれない。
やはり祈りや誓いの対象物は「八百万の神々」というのが私にはあっていると初詣にて感じたのである。
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