2024年02月08日

ライフスタイル狙いのマーケティング

 外食という世界にどっぷりとつかっていた僕は日本社会の経済的発展、変化にどのように外食店舗が対応していったかを時代ごとに考えてみたいと思います。

 生業としての外食・飲食業は歴史上かなり古い話になりますのでここでは割愛し 僕が幼いころからの体験を踏まえて昭和の中ごろの話からになります。高度成長時代の幕開けといっても過言ではないと思うのですが、敗戦により廃墟となった国土からの復活。
 わずか19年にして開催されることになった「近代オリンピック第18回」に向けて各界の活性化が急激に進んでいきました。地方から多くの出稼ぎ労働者にとっての多忙な年月が始まっており、彼らの飲食事情をカバーする食堂がかなりの数存在していました。
 僕は当時小さな田舎の小学生ではありましたが、人口1万人ちょっとの町にも食堂というものがありました。うどん、そば、かつ丼、定食等が主なメニューだったと記憶しています。
 でも子供の僕はそんなところに行ってはいけないと思っていたのです。

 大人の世界、酔っ払い、怪しい雰囲気などを感じたこともありました。

 そうした子供たちは親に連れられて都会の「デパート」の食堂こそが当時の外食デビューだったのですかね。ささやかな家族のレジャーの一環としての「デパート」体験。屋上の遊園地あり、最上階には食堂ありなんでもそろっていた華やかな舞台。食券をにぎりしめ席が空くのを家族で待っていたもんです。和食あり洋食あり、うどん、そば、ラーメン、中華、パフェやアイスクリームまでそろった巨大なテーマ食堂という感じでした。
 当然ながら提供するまでかなり時間がかかっていて、お客がぶつくさ言っていた声もありました。なんせ1時間くらいかかる料理があったり、全体的にみてもバタバタと慌ただしい時間が過ぎてゆく感じでした。
 ほかにレストランを探そうとすると町中の怪しい店か、高級店かホテルのレストランなど、庶民が気楽に使える食堂というのはまだ当時のライフスタイルに対応していないというのが現実でした。

 デパートの買い物客の補完事業としての食堂事業だったのです。世間が次第に成熟していった頃に劇的な外食時代の幕開けとなった店が登場します。
 ご存じ米国からのファストフードの上陸、銀座の一等地に日本初の「マクドナルド」が開店いたしました。食べ物を食べるというよりファッションの一部としてライフスタイルの欧米化とあいまって日本の食文化のエポックメーキングとなったのであります。

 アイビースタイルの若者が歩きながらハンバーガーをほおばる姿は一種の社会現象となっていったのです。
 一方テーブルサービスのレストラン業界の顕著な例は「セントラルキッチン」というシステムの導入により従来の「職人依存型」から「集中調理」を可能にした工業化への歩みでした。所謂チェーン店のさきがけの時代であり関東の雄「すかいらーく」と九州の「ロイヤル」のチェーン化競争の時代が到来します。

 ことに大阪万博という日本の一大イベントに社運をかけて出店したロイヤルは、わずか半年間で9億の売上を獲得、遠い九州からセントラルキッチンを武器にしたoperationが大成功を収めました。1970年当時の現場スタッフの多くはのちの同社の大幹部として成長していったのです。まさに「伝説の万博operation」であったのです。

 すかいらーくは同じセントラルキッチンを有しながらも田舎、地方からの着実な歩みを見せていきます。
 外食の産業化以前に米国のチェーンストア理論を実践していき産業化を果たしつつある業種に「スーパーストア」があり、関西のダイエー
 関東のイトーヨーカドーの二大チェーンがしのぎを削ることになるのですが、同様の「チェーンストア理論」実践という点では外食も似たようなものかもしれませんが、外食という業種の宿命である人材確保、人事教育の徹底は「スーパーストア」より難しかったと思います。
 どうしても接客という仕事が不可欠である以上ある程度の学力が必要だったはずです。

 しかも、急速な出店計画があり 昔ながらの親方、子方、見て覚えろ式の教育では間に合わず、システム化、マニュアル化がどうしても必要になっていきます。これらの一連の仕事は均一化を生み各チェーンの同質化現象に繫がっていくのですが、この当時はさほど経営的に問題がなかったようなそんな気がします。

 つづく
 

posted by 筆文字や隆庵 at 19:34| Comment(0) | イラストデザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]